• 安芸太田町議会議員・大江あつこの活動を報告します。
  • 住民の納得が第一!

  • 一緒に話し合って町づくりをしていきましょう。

2024年12月27日金曜日

来春(2025年3月)の選挙に出馬することを決意しました

今年も残すところあとわずかとなりました。

そして、2期目議員としてもあと3か月となりました。

この4年間(1期目を含めれば8年間)、私の主張である 『*地方切り捨て政策反対 *人の命も自然も守り抜く *戦争・核兵器・原発反対』をぶれることなく言い続け、具体的な形で取り組めてきたか振り返っていますが、まだまだ道半ばと感じています。さらに議員として頑張っていきたいと考え、支援してくださる方々や仲間の皆と話し合い、来春(3月)の選挙に出馬することを決意しました。

• 戦争絶対反対、福祉切り捨ては許さない、民衆の団結こそ力

ウクライナ戦争の激化、パレスチナ大虐殺の残虐さ、それに対する世界中の反戦行動の高まり、また、韓国大統領の「非常戒厳」の宣言と、市民、・労働組合の大規模集会やデモによる抗議行動は、私に戦争を起こす側や圧政への怒りを沸かせ、同時にそれへの圧倒的抵抗に勇気や連帯や希望を与えてくれます。

国内でも戦争情勢が年を追うごとに迫っていると感じます。軍事費2倍化、沖縄島や南西諸島(琉球弧)の自衛隊の軍事基地(アメリカ軍との共有)の拡大や戦時下での島民の具体的避難の策定や避難訓練の実施、日米や軍事同盟国との度重なる大規模共同演習。そして、反戦反核を訴える運動への弾圧も、一線を超える状況です。平和と思える日常も一皮むけば、戦争はひたひたと足元に及んでいると感じざるを得ません。一方でひるむことのない抵抗闘争も確かにあります。

私達の生活もまた、税金や物価は上がり、福祉が後退し、更に厳しくなっています。地方の人口は減少の一途をたどり町の機能の維持が問題となる時期も遠い先の事ではありません。しかし、地域や世代や性別で分断される事なく皆が人間らしく生きたと各地で声が上がっています。

これからも私は議員として、一人の人間として、競争原理や利益追求に支配されたこの体制に抗い続けていきたいと思っています。

■この4年間、私が一般質問した項目です

(一般質問とは・・・一般質問は定例議会において行われ、議員が町(執行者)に対して、施策の執行状況又は将来の方針、政策的提言や行政の課題などを直接質すものです。)

安芸太田の保養活動は今年で終了します

  • 12月8日 NAZEN(全ての原発今すぐなくそう)ヒロシマ総会での発言(抜粋)
  • 私たち安芸太田保養支援グル―プは、2013年から今年2024年まで福島原発事故で被ばくした親子を、被ばくの心配をすることなく、のびのび日常の生活を送っていただきたいと、安芸太田への保養に招待する活動を行ってきました。そして今年で終了としましたので、これまでの保養も含めて報告します。

    2013年から今年まで延べ70組の家族が来られました。6回参加という家族もいます。田舎の親戚の家に帰ってくるような関係になりました。 最初の頃、まだ子ども達が小さかった頃の子どもの感想です。

    『今年はプールや海に行ったり、ヘビやトカゲ、ヤモリ、イモリなどをつかまえて楽しかったです。お好み焼がおいしくてヤモリが近くにいてよかったです。次もお願いします。』『初めて海で泳げてうれしかったです。でっかいなみが来て、そのなみにおされて、砂浜につれていかれて楽しかったです。』

    その子ども達も成長しました。今回お便りと安芸太田のお米ともみじ饅頭を送ったのですが、おかあさん方から次のようなメールが来ました。『息子は大学生になりました、全く何も心配せずに、安全な場所で安全な食べ物。皆さんと共に楽しい時間を過ごせる事に心身ともに救われた家族が、私達を含め沢山いたと思います。』『娘は20歳になりました。夏休みに、放射能を気にせず,自然の中でのびのび遊べたことで、心も体も健康になったと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました💕』『子どもは、中2、中1、小5になりました。上の二人は安芸太田町で過ごした時間を今もよく覚えていて、楽しかったなぁと言っています。震災と原発で傷ついた心を、癒して頂いたこと、一生忘れません。本当にお世話になりました。』『保養に行くことも、原発反対の行動だと思っています。』

    保養をやって来て良かったと思うと同時に、当たり前の日常を奪った原発を本当に許すことはできないと、また改めて怒りが湧いてきます。

    この保養は、全て全国の支援者の皆さんからのカンパで賄いました。今年の振込用紙にはたくさんのメッセージが書かれていました。*長い間の保養支援、お疲れ様でした。*福島の人のためにありがとうございました。*顔を知らなくても仲間だと思っています。*保養支援は最後と知り心が痛みますが、核と戦争のない社会をつくるため私も頑張ります。などです。

    保養に来られた家族はみんな、安芸太田の自然の中でのびのび過ごされました。その安芸太田町は、地方切り捨て政策に翻弄され、空は戦争の訓練場にされています。この資本主義体制の中で富を蓄積し、権力を集中させ、制度も民衆もその支配下に置こうとする層は、資本主義の存続と資本家の利潤追求のためには、人の命も生活も犠牲にする、戦争だってするのです。

    保養は今年で終わりましたけど、被ばく者にとって、検診・治療は、一生不可欠です。国によって保障すべきだとこれからも訴えていきます。そして反戦・反核・反原発を全国の皆さんと共に闘っていきます。

    10.20ローカル線廃止反対庄原集会(発言抜粋)

    私は、安芸太田町町の大江です。私の地元の路線が廃止されてもう21年が過ぎますが、今でも思い出話が出ます。まさに私たちの日常生活一部となっていました。

    ローカル線切り捨て絶対反対!です。

    先ずは、報告から。以前この集会で、安芸太田町は、太田川にかかる13本の橋梁と、国道や県道をまた7本の跨道橋(こどうきょう)合わせて20本の橋梁を撤去する必要があると話しました。現在、国の補助と町の自主財源で一本の橋梁の半分と、跨道橋1本をようやく撤去できました。残る18本の撤去、財源はどうするんでしょうか。町単独はほぼ無理です。老朽化し危険な状態なってどうなるんでしょうか。

    安芸太田町の人口減少はすさまじいものです。1980年(44年前)から比べると人口は約57%減、生産年齢人口は約72%減です。しかしこの人口流出は、今に始まったものではありません。私の住んでいる旧戸河内町では、1963年(昭38)年38豪雪で多くの世帯ごとの都市への流出があったとは言え、戦後1955〜73年の経済成長期、国の政策で労働力が都市へ集中させられ、中山間地域は一気に過疎化が進みました。人口のピークだった1955年から1970年の15年で、9157人から4868人、実に43%の減少です。可部線が戸河内町まで延伸されたのが1969年、その時はすでに人口はこのような状況、その後も現在に至る間、緩やかながら減少していきました。地方の過疎化は宿命ではない、路線の利用者減少・赤字は自治体や住民の責任ではありません。若い労働力の集中を必要とする資本主義が生み出したものです。

    人口減少をくい止める事に焦点を当てた国の取り組みは「地方に仕事をつくる」「人の流れをつくる」「結婚・出産・子育ての希望をかなえる」「魅力的な地域をつくる」でしたが、それどころか今日人材不足は危機的状況です。安芸太田では、医療・介護・保育現場にとどまらず、行政職員や民間事業所、どこも不足しています。介護・保育の現場は受け入れに制限をかけざるを得ない状況です。

    今年7月8日夜の8時前後に岩国米軍基地の戦闘機が私の住む地域、戸河内の上空を100デシベル近い騒音を立てて16回旋回しました。子ども達が「ゆうべすごい音がした。怖かった。」と口々に言っていました。私は中四国防衛局に電話をしてこの状況について問い質し、一般質問で町の対応を追及しました。町の上空で行われている異常な事態、戦争訓練は日常的です。また、岩国米軍基地所属の軍用機の機種変更として、最新鋭の、オスプレイの配備とF-35ステルス戦闘機が配備されました。この配備は米国以外では日本だけのようです。対中国侵略戦争に向けての配備だと思います。

    石破首相は「核共有」に前向きな姿勢を示していますが、アメリカとの核共有は日本国内に核を持ち込まなくてできるのでしょうか。 核弾頭が岩国米軍基地か沖縄か、日本中の米軍機基地のどこかに配備され、それが使用される事を絶対阻止しなくてはと思います。

    被団協がノーベル平和賞を受賞して、地域の方やイラクのドクターから『受賞おめでとう』のメールや言葉をいただきました。被団協の運動にはかかわっていない私ですが、地元で黒い雨や反戦反核を訴えているからの励ましの言葉だと感じました。

    来年3月は安芸太田町議会選挙です。自治体議員としてやるべき義務と責任があるとの思いで出ることを決意しました。